毒親とのトラウマ、起業17期目、両親の介護を抱えながらもシングルファーザーとして子どもを育てていく日々のリアルな体験をシェアしています。

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2019年にまたひとつ年を取る自分に、今年の目標は「自意識」からの卒業。

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新年あけましておめでとうございます。

新年あけましておめでとうございます。2019年一発目のブログとなります。2018年までに、このブログで100投稿を目指していたのですが、年末にバタバタしたので、今年に持ち越しとなりました。。

皆さん、2018年は良い年でしたでしょうか?

僕の場合、SNSやブログで書いていることは所詮、営業で「良いこと」しか載せていないので、その氷山の下には、「苦々しこと」「苦しいこと」「過去のトラウマ」「怒り」など、そんな感情との闘いでした。そんな色々な経緯があり、昨年(2018年)には、「ミニマリスト」になりました。ただ、自営業者なので、会社で必要なモノは自分ですべて準備しないといけないので、巷で言われているような、六畳の部屋に何一つ物がない「ミニマリスト」とは少し違うかもしれませんが、ただ自分の所有物は「40%」ぐらい減らしたと思います。

そこで、このブログを書くにあたって、今年の目標を考えた所、やはりこれしかないなぁと思いました。

「自意識からの卒業」です。

『ナナメの夕暮れ』(オードリー若林)にすごく共感した。

自意識からの卒業」という言語化できる以前は、このまま年をとってよいのかなぁという(2018年に40歳になった)「問題意識」を感じていました。そのきっかけとなった理由は、ほんの些細なことから、大きなことまで色々、ありました。

「問題意識」となったきっかけ。

  1. 電車や駅校内、街中で見る「初老」の人たちの素行の悪さが、目に余った。
  2. 40代半ばの仕事上の付き合いがあった人から、わかりやすい嫌がらせ(邪魔)が頻繁に起こった。
  3. 「若いもんにまだ負けるかー」と怒号を鳴らしたもうすぐ80代の母親に唖然とした。

まだ色々とあるんですが、ざっくり書くとこんな感じです。
僕は組織やコミュニティーに深く属していないので、いつも「嫌なら出ていこう」というスタンスなのですが、ここで思ったのは、自分が子供の頃は、「年を重ねれて老人になれば、人生の何かを悟り、仙人のようになる」と思っていました。しかし実際は、1)で書いたように、電車の中の席が狭いや、横の人にもたれたなどで、定年したような初老の男性が大声で言い合いをしていたり、また、駅構内でも酒に酔っていたのか、駅員に殴りかかったりと、白髪で深いしわの入った人たちが、まるで「マイルドヤンキー」のようになっている状態を、今年は本当によく目の当たりにしました。。。

まだ、2)と3)も説明したいのですが、文章が長くなりすぎるので、ここは短く、年寄り(中年・初老・老人)のいつまでも変わらない「競争マインド」と「闘争マインド」に正直、嫌悪感を持ちました。

そうここで「年をとっても、人生を悟れない、仙人にはなれないかもしれない」ということを感じた訳です。そこで偶然、SNSに流れてきたのが、『ナナメの夕暮れ』(オードリー若林)でした。

中でもこの一文にググっとひきつけられました。

おじさんになって、「生き辛さ」から解放された―「自分探し」はこれにて完結!

これを読んで、自分も含めて全て「自意識」なんだなぁと思うようになりました。

「『幸せ』プレッシャー」が終わりのない「自意識」を加速させる。

まったく話が変わるんですが、また後で必ず、戻ってきます。。

今年、クリスマスと正月はイベント的なことは何もやっていません。クリスマスです(僕は因みにクリスチャンです)が、毎年何かイベント的(ツリーや電飾、賛美コンサートに教会に行ったり、ケーキ食ったり、チキン食ったりなど。)なことを必ずやっていました。しかし、クリスマスを支えていた根拠である「12月25日はキリストの誕生日」というのは「嘘」で、ローマ・カトリックがキリスト教を国教と認める前に存在していた異教の宗教(太陽神)の「冬至の祭り」を偽って「イエス・キリストの誕生日」としたというのを知って、一気に冷めてしまいました。

要するに、クリスマスのルーツは、聞いたことも、見たこともない宗教の祭りを世界中の人たちが祝っているという虚しさでした。。そこで今年は、どういう訳かこの時期を「俯瞰」してみれるようになると、自分が世の中(メディア)から発せられているクリスマスの幸せプレッシャーを受けていたことを知りました。

「クリスマス」でも「正月」でも、日常を乱すのをやめた。

そうすると、なんでこんな年末の忙しい日に、家族をそろってチキン食ったり、それらしい洋食的なオードブルをそろえて、あんまり好きじゃないケーキ食う必要があるのかと疑問符が連発しました!(もちろん子供たちは関係ないので、クリスマス・プレゼントだけ渡しました。ただ、これもなんで、年末にお年玉あげるのに、その数週間前にプレゼンもあげないといけないのだろうと疑問符はあります。)

さらに、正月も、年末に奥さんと子供3人が、奥さんの実家に30日から行くことになったので、家で一人で過ごすことになりました(別に、奥さんと仲が悪くなったわけではありません。。)。そこで僕は1月1日は半額になった弁当を一人で食べて、12月31日まで仕事をしていたので、11:00には寝ていました。子供が3人いて、まだ小さいのもいるので、毎年、こんなことを続けれられるとは限りませんが、いつもなら、高いおせち料理(1月1日からほとんどスーパーはやっているので、おせちの意味合いは正直、薄れている)を買ったり、それらしい装飾をしたり、「正月らしい」何かを無理やり演じていたように思います。

そこで気が付いたのが、僕も結局、この時期特有の「幸せプレッシャー」をまともに受けていて、メディアや商業施設かられ流れる情報に準じた「幸せにならないといけない」とか、「幸せ風の何か」を強要されていたことに気が付きました。

次、戻ります(うまく、戻れるかなぁ。)。

自意識の壁をとって、「内側の世界」と「外側の世界」の境界線をあいまいにしてみた。

ここは上手く書けるかわかりませんが、少ない語彙力ですが、やれるだけやってみます。
自意識の発達は、必要な成長過程だと思います。例えば、うちの長男が次小学校6年生なんですが、そろそろ「自分」というものが出てきて、自分の意見を言うようになってきました。親に頼りぱなしだった長男が「自意識」を持ち出して正直、頼もしい感じがします。しかし、この自意識は10代、20代(長くて30代半ば)ぐらいまでの青年期のプロセスで、逆に大人になるというプロセスは、この身に着けた「自意識」を一枚一枚、脱ぎ捨てるプロセスとではないかと思います。

「ライザップ」に見る「中年の危機」(ミドルエイジ・クライシス)ビジネス。

一時、中年のおじさんたちが、体をムキムキにした「筋トレ」がはやりましが、まさにあれが「自意識」の象徴のように思います。よくアメリで中年男性の「中年の危機」を題材にしたドラマや映画がよくありますが、まさに、中年になって自意識を捨てるというジレンマに陥った状態ではと思います。

しかし、中年男性のライザップ的なものは、その自意識を脱ぎ捨てるというのとは逆で、「もっと自分」「まだまだやれる自分」「競争に勝ち抜く自分」「まだまだ若い自分」と、自分をさらに浮き出そうとしている心の現れのように思います。それを頭から否定しているわけではありませんが、この「自分を高めて、もっと自分を成長させて、幸せになる」というのは案外、外側の「幸せプレッシャー」によるものが大きいように見えてなりません。

人工的な「幸せ」を諦めることが「自意識」卒業の一歩。

結局、私も含めて、多くの場合、「幸せを強要」されているように思います。「幸せにならない」という思い込み(もう十分、満ち足りているのかもしれないのに)で自意識の壁が高くなり、自分と外の世界が分断されていくように思います。それでうまくいけばよいのですが、最終的には、人間関係のもつれ、社会に認められない自分、もっと自分はこうなれたでのはとの後悔などが生まれるように思います。それは、いつも「自分」を主語に物事を見る「悲劇」のように思います。

英語の文法ではありませんが、自意識を捨てる物の見方として主語を「無生物主語」(Itなど)に変えてみるとよいかもしれません。さらには抽象思考を上げて、外の世界からみた自分の立ち位置など、外の世界と自己(内側の世界)の境界性をあいまいにしていくことで、自分の進むべき帰路が自然と浮かびあがるのではと思いました。

新年一発目は「自意識からの卒業」、そんな雑感でした。。

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