毒親とのトラウマ、起業17期目、両親の介護を抱えながらもシングルファーザーとして子どもを育てていく日々のリアルな体験をシェアしています。

シングルファーザー親父の子育て

書評/論評

昔は「村」、今はソーシャルメディアでの「同調圧力」が、国境を超えて「生きにくさ」をさらに加速させている。

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学校参観、21世紀になっても「クラス」は変わっていない。

僕は、集団行動がとにかく苦手です。学生時代の6・3・3年間で、1クラス30名後半の人数一塊になって、同じタイミングで同じことをする無益感によく、よく悩まされていました。それで去年、長男の参観に行った時、相変わらずの1(先生)対N(生徒)の一方向授業に唖然としました。そう、21世紀になっても、クラスの中はタイムスリップしたかのようでした。

僕の身の回りの現場だと、とチームワークや、コラボレーションをいかに効率よく、賢くやるかっていうのが重要だけど、一人がただ延々としゃべり続けて、残りの人間がただ、聞いているだけの生産活動って、ちょっとした大企業の会議室的な雰囲気でした。45分間、 「1」(先生)の話をだた聞き続ける授業は、参観に来た保護者だけど、結構な忍耐を要求されました。。

もう40歳前のおじさんが、しんどくて、途中で家に帰りたい欲求と戦っていました。。

集団行動が苦手でいつも「お客さん」の立場だから見えること。

「あああ、もうしんどい、こんなのつまらないから俺帰る」とでも漏らしてしまうようなら、しつけられた生徒たちが、警察犬となって、僕を監視し、規範の外にいる「悪い大人」というレッテルを貼り、さらに、頼まれてもいないのに、偉い先生に報告までして、「罰」として村八分を喰らいます。

実はこれって、「クラス」だけの話じゃなくて、日本中、ありとあらゆる所に張り巡らされているシステムです。

僕は、家族以外で、所属している企業、組織やコミュニティーとかって呼ばれる集団と距離を置いているので、どこに行っても「お客さん」的な立ち位置です。お客さんの立場だと結構、色々なことが見えてきます。

共通しているのが、組織内の同調圧力と、それを守らない人を監視する仕組み、さらに罰としての「いじめ」(無視・無関心)が機能しています。

生きにくさの背景は、古今東西で「同調圧力」。

よく、田舎の人が、村の同調圧力が嫌になって、都会に出ていく話はよく聞きますが、その先は、誰もあまり語られません。
結局、行った先の都会でも、組織や社会、地域などがあり、また別の違った同調圧力が生まれます。そして、田舎からの新規参加者は、既存参加者の後なので、ルールが固定化されているため結局、「生きにくさ」は、村にいた時とあまり変わらない、みたいなことがよくあると思います。

シンプルに書くと、組織やコミュニティー内で果実が大きいのは、その発足者と発足して間もない時に参加した人たちのみです。例えば、ベンチャー起業を例にとっても、最初に参加した人たちは、役職も上がり、株式を公開するとなると、その恩恵としてストック・オプションを提供されます。

しかし、そのベンチャー起業が有名になった後に、参加する人は、もうルールも固定化されているので、その枠組を守ることが暗黙の了解となり、それをはみ出ると、監視システムが起動し、罰としての「いじめ」が待っているという図式です。

同調圧力が、ソーシャルメディアを通してさらに加速。

21世紀の同調圧力は、Facebookに見られるソーシャルメディアだと思います。
昨年の大統領選挙で、米国の大手メディアはこぞってヒラリー有利と報じていました、蓋を開けたら「トランプ勝利」でした。僕も選挙を手伝ったことがあるので分かるのですが、FacebookやTwitterで、選挙を見ていると、候補者が常に有利のように錯覚します。


理由はシンプルで、そのソーシャルメディアの構成員は、同じ考えをもった人だけで構成されているからです。

恐らく、米国の大統領選挙も同じで、ヒラリー候補を応援していた人のソーシャルメディアの構成ユーザーは、同じヒラリーを応援していたので、誰も落選すると気づかなかったように思います。

もし、そこで、誰か一人が、「あれ、ヒラリーやばいんじゃぁないの?」みたいなことを投稿しようとするものならば、他ソーシャルメディアの構成員の監視に会い、罰が待っています。その恐れもあり、「トランプ優勢」と思っても、同調圧力に屈して、誰も、反対意見を発言できなかったように思います。

これを日本だと、右と左の思想の溝は深まり、中国や韓国などの東アジア隣国に対する国粋主義的な考えだと思います。

「生きやすく」するにはどうすればよいか?

ある知人が、実家の農家を継ぐために、東京から戻ってきた時の話ですが、とても典型的な例なので紹介します。

その友人は、代々引き継い畑の付近がマンションなどの住宅地になった後、その住人から嫌な目で見られるというものでした。その理由として、朝は上りの電車ではなく、「下りの電車」が理由であるとか、またまた、服装がカジュアルだとか、日が暮れたら仕事にならないので、帰えることだそうでした。

これを言い換えると、朝のラッシュの満員電車には乗らなくてよいし、首を絞めるネクタイや、動きくいスーツで身体を固めることもないし、残業がないということだと思います。
非常に良いことだと思うのですが、これが、その畑の付近が住宅地と変わったことで、サラリーマンの家族が住み着くようになり、自然と「同調圧力」が生まれ、その規範外にいるその知人は、住人から白い目で監視され始めているということだと思います。

その知人の単なる思い込みかもしれませんが、私も同じような環境にいるので、よく理解できました。

「生きにくさ」を解消するために、個人的にやっていることは、コミュニティーの概念を捨てるということだと思います。

昔は「村」で、今は「コミュニティー」になりましたが結局は同じです。
「規範(ルール)=>監視=>罰(無視・無関心)」で構成されています。この中にいると、誰かが暗躍した訳でもないのに、自然とそのようになります。これは、先述した学校教育での賜物の結果、多くを語らなくても構成員は自然に身についています。言い換えると、そのコミュニティーの暗黙知のルールを理解することが叩き込まれています。

ただ、コミュニティーを捨てるとなると、人付き合いもやめるみたいに聞こえますが、僕は「ネットワーク的」に生きることを目指しています。その違いを書いてみたいと思います。

コミュニティー的に生きる

  • いつでも戻ってくる「居場所」を家族以外に求める。
  • 多くを語らなくてもある程度、同じ背景(バックグラウンド)の「友人・知人」ばかりを求める。
  • 人や組織に対して、多くを知りたいと思う。
  • 「集団」を最小単位として考える。
  • 自分の存在力は、組織の参加年数(忠誠心)や影響者との個人的な関係とする。
  • 他者と自分の利益が曖昧。

ネットワーク的に生きる

  • 居場所は、その時々で変わる。
  • 一期一会で、もう二度と合わないかもしれないと思いながら接する。
  • 人に対しては、自分と関与する部分のみで、多くを聞かない。
  • 個を最小単位として考える。
  • 自分の存在力は、自分が出来ること(能力)に頼る。
  • 他者の利益を尊重する。

「ネットワーク的」に生きるということの土台は、自分の脚で立つ(自立する)ということだと思います。
僕自身、あまり人とは関わらず、自分の時間、家族との時間を重視していますが、飲みに誘われたり、嫌なことに追われることは少なくなりました。
その代わり、自分の能力を高めることや、勉強・課題克服・問題意識などに注力できる環境へと変わりました。

そして、人と合う時は一期一会の精神で、毎回の面会ではその時間を充実させようと努力しています。

ほんの最近でも、あるコミュニティーの規範に従わなかったのか、コミュニティー内の価値観と反対のことをしたのか、詳細は定かではありませんが、罰(無視・無関心)を受けました。しかし、「ネットワーク的」に生きていると、その回路を切ればよいし、単純に言えば、「出る」だけで解決します。

しかし、反対にコミュニティー的に生きていると、その罰で色々なことを失うこととなるので死活問題だと思います。
学校のクラスや職場では、ほぼ全ての時間をそこで過ごすため、出て行くことができません。このような中にいることの方が実はリスクが高く、とてもストレスが多く、精神的に参ってしまいます。

生きにくさから出ていきたいのであれば、やはりネットワーク的な思考が必要のように思います。

またちょこちょこ、こんなことを書いていこうと思います。

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